ピジョン☆萬治郎の椿説灼熱四畳半

中年おっさんの生活情報ブログ

殺生石

DTM奮闘記」なんてタイトルつけといて、能楽のこと書いたりして。

 

殺生石』とは皆さまご存知の狐の妖怪、玉藻の前のお話ですね。

 

この曲のラスト、能ではキリというのだけども(キリがいい、のキリ)、玉藻の前が狐の正体を現し、空を駆け巡って大暴れするシーンがある。

 

この仕舞の稽古を受けたとき、まず歩き方について「これは狐の妖怪だから、龍神とか蔵王権現とかと違って歩幅を小さく素早く動き、狐らしさを表現するんだ」と指導を受けた。

そんで小股でピコピコ歩いてると「玉藻の前は空を飛行してるんだから、地面を歩いている感じを出してはダメだ。なめらかに空を滑っていかないと」と指導を受けた。

🐷?

最初これを聞いたときは全くブタハテナになりましたネ。

歩き方で狐を連想させ、それと同時に地面を歩いてると思わせないようにせれ、とはコレ如何に。

 

なんだけど、後々振り返って考えてみて、いまはどういうことなのかわかる気がする。

 

もし能の衣装や小道具がリアリティを追求したものであれば、役者をロープで宙づりにして、狐っぽい面と尻尾をつければ観客にわかりやすい狐の妖怪像を提示できる。

もしくは舞台にCGを映し出せば、観客の度肝を抜くような妖怪狐を表現できるかも知れない。

 

しかし思うのだが、形が整い過ぎたものというのは、それ以上に雑念が入る余地がなく、それそのものを受け止めるしかなくなる。すると、最初は驚きを持って迎え入れられてたものも、何度か目にすると既知のものとして何の刺激も感じなくなる。むしろ粗探しなんかしだしたりして、最初の評価から下り坂、陳腐化するしかない。

一方で能の表現というのは騙し絵のようなもので、ある視点で見るとまるで狐のような歩き方、また別の視点ではまるで空を飛んでいるような移動の仕方に見えるような、言ってみれば観客に演技の結論を委ねる形で提供される。

ある視点で見ると、と書いたが、人間のモノの捉え方はそう単純ではなく、頑なになりさえしなければ「狐のように歩いて飛んでいる」という論理的にいえばナンセンスな姿をひとつの動作から受け取ることができる。たぶんそれは人間の機能が不完全なところから生じるものだろうけど、決してコンピューターでは実現し得ない(教え込めば「コレってこういうことだよね。ハイハイ」みたいにはなるかも知れんが)ものではなかろうか。

そしてその錯誤こそ、人の感性の深いところを刺激するんじゃなかろうかと。思うのよ。近ごろは。

合理的にスカッとすることって、多分頭をそんなに使わないのだろう。なので整合性の高いものは受け入れやすいが、振り返ってみると「フーン」て感じになる。

一方で、ある意味デタラメなものは、処理に時間がかかる。その負荷がインパクトを大きなものにしているのではなかろうか。

昔読んだ脳科学の本に、勉強をするときはキリのいいところで止めるのではなく、途中で切り上げるのがよい、て書いてあった。なんでも思考の途中で置き去りにしてしまったので、脳は中断中もそのことを考え続けていて、結果それが記憶につながるのだそうな。

これは詩も同じ機能を持っていて、一見文法的に合理性に欠ける詩があらゆる時代・地域で人々の心を掴んできたのもそういう人間の感性を刺激してきたからだろう。

 

ただ最近そういうのは流行らなくて、文学なんかでも物事の因果関係がハッキリし過ぎていたり、または変人自慢みたいな作品ばかり散見されて残念至極。

詩とか能がまた愛好される時代が来たら、観客の目も肥えていって、それに伴いもっと魅力的な作品が世に出てくるような気がするのだが、どうだろ。

 

あ、ちなみにCGとかによるリアリティ(空想上のものも含む)の追求については、想像力の幅を広げるための体験を与えてくれるので大賛成。

「活字を読みなさい。テレビや漫画を見てたら考える力がなくなる」ていう人もいるけど、むしろ疑似体験による刺激が次の妄想に繋がるんではなかろうかね。

安易なところに依存してしまいがちになる、てのもわかるけどね。

 

とりとめもない話になってしまった。クソしてスリープ。